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執筆者の写真Choku KIMURA

福田恆存『人間・この劇的なるもの』-生き様を考察する-

更新日:4月22日



 松岡正剛(2009)の『多読術』によると、多読のコツとして、友人から薦められた本を読むということがある。この本は、鉱物学を志していた頃に知り合った友達が教えてくれた本で、彼は入試問題で福田恆存に出会い感動したと聞いて、彼の勧めで読んでみた。

 本書は、人間は役割を演じている存在だと言う。福田恆存といえば、シェイクスピアの翻訳者としても有名だが、本書では、ハムレット論を交えつつ、劇論から芸術論、そして根本問題の命題として「生きがいとは何か?」へと発展していく。

 近頃、私は東京藝術大学への院試に向けて自分の表現の本質がどこから生まれ、どこに向かっていくのかを考察している。最近は、立川談志とビートたけしのオールナイトニッポンを聴いて、表現とは生き様なんだと語る談志師匠の話を聞いて、まさにその通りだと思っている。それゆえに、僕の表現は生き様から生まれてくるとして、その人間は役割を演じているに過ぎないと、指摘する福田恆存は「生きがい」や「生き様」についてどんな考察をしたのだろうか。

 福田恆存は「個性などというものを信じてはいけない。」という。さらに「自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばも無い。(省略)生きがいとは、必然性のうちに生きている実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台のうえで、常にそうであるように。」とある。つまり、生きがいが必然性のうちに生きている実感だとするなら、それらを生き続ける

人間や芸術家の生き様もまた、演じている一つの役に過ぎないのだとこの考察から考えられる。これは、私にとって発見であった。これまで、私は自分が「芸術家になりたいという必然性」を証明する根拠がなかった。しかし、福原恆存からすれば、私が「芸術家にはならない必然性」もないのだと言うのだろう。だから、私はやはり芸術家を志しながら、しかし、一方では、芸術家ではない、ただの私と向き合う必要性があるだろう。これこそが、芸術家を演じ、観客を失笑させないためのコツだ。つまり、私は自分でありながら、自分を超えたいと願い、しかし、常に自分自身であらねばならない。これらが、私が本書から学んだことである。

 最後に、人生を演じ切る時に、重要なエッセンスを福田恆存は語っているので、紹介したい。「無智でありながら知っているという、その感覚が重大なのだ。それは、部分でありながら、同時に全体の参与しているという感じを観客に与える。」


福田 恆存

『人間・この劇的なるもの』

新潮文庫 1960

カバー装画:松林 誠


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