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執筆者の写真Choku KIMURA

人生を〈半分〉降りる 後編-嫌いという豊かな感情-

更新日:2023年5月27日


 『人生を〈半分〉降りる』という本書の根底を貫くものは「私たちはまもなく死んでしまう。だからこそ、自分のために命を使う。」にあるだろう。そしてその自分のために命を使う際に、「なぜ、私が生きているのか?」に対する問から目を逸らさないことを〈半分〉降りると説いている。全部の人生を降りてしまえば、ある種、死ぬなり、乱痴気に生きるだけで終わってしまうし、それは虚しい。一方で半分降りるのが虚しくないわけではない。人は虚しさからは逃れられない。しかし、同時に生きたいと私は思う。


 そこで後編では、自己中心的に生きることについて、中島の2冊の本での意見を取り入れながら、考察する。これらには自己愛との関係性が切っても切り離せない。尚、前編では、繊細な精神等について考察した。

 さて、中島は『ひとを<嫌う>ということ』[1]の中で「嫌悪する感情」の豊かさについ語っている。中島によれば、嫌いという感情は好きという感情くらい豊かなものだが、日本はこれを良しとしない。

 私もまた、人間嫌いが激しい。しかし、そういう自分を何だか良くないものと勝手に決めつけ、常に心の奥底では、相手を嫌いながら、表面上は良い面をしなければいけないと、自分を殺していた。しかし、それは嫌いという豊かな感情を殺すことだと本書では指摘されている。中島はここで、無理に好きになったり、表面上の付き合いを続けるのではなく、寧ろ互いに豊かに嫌い合うことを勧めている。

 私は自分に嘘をつかないと、人付き合いが出来ないことに苦しんでいる。なぜなら、私の場合は好きよりも嫌いのほうが多い人生だからだ。日本において、好きという感情は好まれるが、嫌いという感情は良しとされない。だから私は、自分の嫌いを押し殺さねばならず、苦しい。無理に嫌い(あるいは好き)を隠すのは、神経を使い疲れるからだ。さらに、考察を加えるならば、好きなものが過剰に多すぎることも、マジョリティにとって好まれないと私は考える。

 そこで、自己中心的な生き方という概念が必要になる。つまり、嫌いという豊かな感情を無視しないこと。(あるいは好きも含め)このような生き方をすると、中島曰く、半分の人に嫌われるそうだ。だが、私は、そもそも世の中の8割には嫌われていると感じている。それが5割と言われても、増えることにはならないので、心が軽くなる。私が、繊細な精神でかつ自己批判的に、さらに懐疑的に生きるためには、半分くらい間違いなく嫌わなければやっていけないことは、経験上でもよく分かる。

 さてこれらの嫌いという感情をさらに深く掘り下げたときに、自己愛という問題がある。『愛することが出来ない私 マイナスのナルシスの告白』[2]では、この自己愛について語られている。ここでの自己愛とは、単純に、自己のことが大好きであるということだけではない。強烈な自己愛の場合、寧ろ自分が嫌いですらある。だが、また同時に自分に期待している。この期待こそが、自己愛の増幅を起こし、自身を狂わせるものだ。

 中島もまた本書で自己について赤裸々に告白をする。中島は「なぜ、これほど私は愛されることを恐れているのであろうか。それは、私が他人を愛することができない人間であること、自分しか愛せない人間であることを知っているからである。そのことで、やはり卑下しているからであり、恥じているからである。」と語る。さらに「私の孤独は完成する。それが幻の城であることを私は知っている。つまり、私はその中にひしめく他者に自分が自然に愛されているのではないことを知っている。それは私の死闘によってつなぎ止めておいただけの愛であること、つまり幻想であることを知っている。しかも、私は幻想が醒めることを恐れているから、ひどく矛盾したことに、私はこのくたびれ果てる努力から開放されたいと心から願うのである。…一方で、私を愛さない他人がいることに私は耐えがたい。だが、他方、私を愛する他人もそれ以上に耐えがたい。だから私は私を愛そうとする人に関心を寄せる。そして私を愛している人には冷淡である。反感すら覚える。いや、いつか殺そうかと計画を練る。なぜなら、私への愛はいずれ冷めるだろうからである。」と彼の自己愛は、彼自身を蝕む。

 私自身の経験を告白すれば、自分を愛する、あるいは憎むことに一杯一杯で、他人を愛する余裕がないのだ。愛するどころか、配慮する余裕がない。そして、そういう自分を知り、受け入れる。残酷な側面を持つ私自身を。それを受け入れることは、一側面として人生を〈半分〉降りることに繋がる。私を受け入れることは残念ながら、人生を半分降りることだと思った。

 さて、中島は、人生を半分降りるにおいて「『繊細な精神』『批判精神』『懐疑精神』をもって、『自己中心主義的』に『世間と妥協せずに』生き抜くと、社会でも学校でも、つまり残しておいた〈半分〉の人生風景も変わってくる。」という。そして「成果があらわれてきますと、世間にキタイすることも、世間から期待されることもかぎりなく薄くなり、世間のしがらみから、そのぎっちりとした価値観から自由になる。(省略)あなたは必ず(世間的には)不幸になります。そして、それでいいのです。まさにこうした不幸を選び取ること、不幸を覚悟し、不幸に徹して生きつづけること、これこそ〈半隠遁〉の醍醐味なのですから。」と述べる。

 中島は本書の最後に「そして…?そして、あなたはまもなく死んでしまう。」と締めくくる。

 『チ。』(2020-2022)[3]という漫画がある。そこに「信じることと疑うことは矛盾するが、それを人間は抱えて生きられる」という言葉がある。小原信の連帯的孤独にしても、中島の半分降りるにしても、この矛盾あるいは不条理を抱えて生きることが、不条理を見つめることの本質だと私は考える。


本書の中で、中島はローマの哲学者セネカを引用している。


「ぼくは自分の見解を変えようとはまったく思いません。多数者は避けるべきであり、少数者も避けるべきであり、いな、個人さえも避けるべきです。」[4]



終わりに...


 私は、この文章をおよそ、一年前に書いたがこれを発表することは私にとって、人生を全て降りるような気がして怖かった。しかし、この文を発表することは私にとって、<半分>程度だなとこの生き方を実践してきて思った。何なら今はまだ、4割くらいしか降りておらず、半分にはまだ遠いなと思う。そして同時にこれ以上、アクセルを踏み続けていいものなのかとも悩ましい。



中島義道

『人生を〈半分〉降りる 哲学的生き方のすすめ』

ちくま文庫 2008

カバーデザイン・写真:間村 俊一




参考


[1]中島義道『ひとを<嫌う>ということ』2000年、角川文庫

[2]中島義道『愛することが出来ない私 マイナスのナルシスの告白』2007年、角川文庫

[3]魚豊『チ。―地球の運動について』ビッグコミックスピリッツ、2020-2022(連載期間)

[4]セネカ『道徳論集(全)』茂手木元蔵訳、東海大出版、1989


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