今回は三冊の中島義道さんの本から、『人生を〈半分〉降りる』を中心に「〈半分〉降りる」ことについての方法論や姿勢を考察する。これらは、私の信念とする不条理を見つめるということと、関わりが大きい。
さて、人生を半分降りるとは、何か。中島によれば、それは半隠遁生活を指す。完全に隠遁生活を送るわけではない。半分という部分が大事だと言う。それは前回扱った小原信の『孤独と連帯』(1972年)にも繋がる。孤立は避けつつ、連帯的な孤独を志向する、これらの思想より、中島の〈半分〉降りる思想は明白で、かつ実践から生まれた言葉のように聞こえる。
中島は、幾度となく本書の中でローマ帝国の政治家、哲学者、詩人であったセネカの言葉を引用する。本書で引用されたセネカの言葉を一つ引用したい。
生きることをやめる土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅しではないか。[1]
セネカは何のことを言っているのだろうか?それは人は死に瀕した時、はじめて死を意識する。しかし、そこで初めて、自分のために生きることをしては遅い。つまり人は必ず死ぬということを丁寧に語っている。中島は本書の中で息をすると同時に自己本位的であることを勧めている。
半隠遁生活にとって、重要なのは、「そして、まもなくあなたは死んでいく」ということである。中島はこれらのことを口酸っぱく何度も私たちに語る。私たちはまもなく死んでしまう。だからこそ、自分のために命を使うことを説く。それが本書の書かれた理由でもある。
では、人生を半分降りて、何をするのか。それは自分は、「なぜ、私が生きているのか?」に対する問から目を逸らさないことである。そして、それは私にとっては、制作そのものである。本来なら芸術家である私は、芸術に生き甲斐を見出し、かつお金が貰えてれば、半隠遁の必要性はないと思う。しかし、私のように売れもせず、かつ、芸術ですら定期的に虚しさを感じる私にとっては、もう人生を、ある意味では芸術家も〈半分〉降りるしか道はないのである。つまり自己中心的に、私の言葉に置き換えれば、自分に対して正直に、生きてみるしかないということだ。半分降りるということを考えるときに、私は、画家の中村政人の「逸脱」という言葉に出会った。半分降りる=逸脱だとすれば、人生における〈逸脱〉は寧ろ、芸術の本質の一つであるとも言える。画家の中村政人は写真集『明るい絶望』の中で、「『純粋』×『切実』×『逸脱』=芸術」という興味深い式を提唱している。中村政人はこう述べている。
持論だが、「純粋」で「切実」な行為や表現が「逸脱」した存在となった時、私は、そこに「芸術」としか言いようのない状態を感じる。[2]
「逸脱」とは、正道から足を踏み外すことだ。逸脱を思い浮かべたときに、写真家の鈴木理策さんと交わした言葉を思い出した。私が居酒屋で、乱雑に箸とおしぼりを適当においていると、「汚い」と言われ、「写真家は常にマメじゃなきゃだめだ」と言い、鈴木さんはおしぼりを丁寧におき、箸置きを箸袋で自作し、綺麗な自分の食卓を作った。そして、「ただ、綺麗なだけじゃいけない。そこで一つズレること、間違えたときに、いい写真が生まれる」と話した。人生を全うすることが生きることの王道なのだとしたら、半分降りることは、人生を逸脱することとも言えるのではないか。それは、やはり芸術家としての生き方の一つではないのだろうか。
さて、〈半分〉降りることの具体的な方法だが、中島義道によれば、以下がその方法論のキーワードになる。
・繊細な精神 ・批判精神 ・懐疑的精神 ・自己中心的に生きる
繊細な精神と自己批判的な精神については、既に公開している中島義道『差別感情の哲学』の解説をご覧頂きたいが、ここで簡単に説明すれば、繊細な精神とは「『割り切れなさ』を大切にする精神」(40頁)と述べられている。また批判精神についてはニーチェの言葉の引用からそのエッセンスを知ることが出来る。
学者たちを警戒するがいい!学者たちは、あなた方〔ましな人間たちを〕憎悪する。彼らは非生産的だからだ!学者たちは冷たい乾いた眼をしている。彼らの前では、すべての鳥が毛をむしられてころがっている。学者たちは嘘を言わないといって威張っている。しかし、嘘を言う力がないというだけでは真理への愛にはほど遠い。用心が必要だ![3]
ここで述べられていることは、例えば、倫理学者でありながら、倫理感のない人が大勢いるということだ。これについて、中島は「私にとって人生を半分降りるということの中心部には、『哲学』をより多くし『哲学研究』をより少なくする、ということであります。つまり、人生を〈半分〉降りることは学者を〈半分〉降りることでもあるのです。」と述べている。従って、私も芸術家を半分降りて、芸術をやっていく。
さて、続いて懐疑精神については、中島のカール・バルトの引用が解りやすい。
「彼は、正しいものであろうとしないかぎりでのみ正しい。」[4]
中島はこれらを引用し、「こう語りつづけるバルトは徹底した懐疑精神の持ち主です。人間が『正しくあろうとして行為するかぎり正しくない』ということ、この真理を洞察していた彼の絶対的な善を求める気持ちは強かったにちがいない。」(155頁)と述べている。またさらにヒュームの引用は辛辣だ。
…一般的に言えば、宗教の誤りは危険であり、哲学の誤りはただ滑稽なだけである。[5]
ここで、中島は「哲学は社会的有用性とはまったく関係がありません。いや、場合によってはかえって有害かもしれない。哲学を研究した結果、不幸になっても、狂気になっても、自殺しても、国家や民族が滅びてもしかたないでしょう。(省略)哲学は徹底的に社会的無用物なのです。このことを骨の髄まで知ること、これこそ懐疑精神をもって哲学をとらえることなのです。」(179頁)と語る。
さて、いよいよ最後の自己中心的に生きることについて、中島の2冊の本での意見を取り入れながら、考察する。これらには自己愛との関係性が切っても切り離せない。
人生を〈半分〉降りる後編に続く。
中島義道
『人生を〈半分〉降りる 哲学的生き方のすすめ』
ちくま文庫 2008
カバーデザイン・写真:間村 俊一
参考
[0]『孤独と連帯』小原信、1972年
[1]『道徳論集(全)』セネカ、茂手木元蔵訳、東海大出版、1989、241頁
[2]『中村政人写真集 LUMINOUS DESPAIR 明るい絶望 SEOUL-TOKYO 1989-1994』中村政人、3331 BOOKS、2015、692頁
[3]『ツァラトゥストラはこう言った(下)』F・ニーチェ、氷上 英廣 訳、岩波文庫、1967、42頁
[4]『ローマ初講解』〔『世界の大思想』Ⅱ-13〕K・バルト、小川・岩波訳、河出書房新社、1968、476頁
[5]『人生論(ニ)』D・ヒューム、大槻春彦訳、岩波文庫、1949年、128頁
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