日本人、総フォトグラファー時代となった今、写真論は写真家だけのものではない。本書で語られる写真の倫理は、全てのカメラを持ち、また鑑賞する人間にとって、知らなければならないリテラシーだ。
この本での主張を三つにまとめるとこうなる。1つ、写真はシュート(shoot)である。つまり、撃つ行為であるということ。それゆえに、暴力性を伴っているということ。(我々が悪意なく、写真を撮ることによってでさえ、苦痛を感じる人がいる。写真はスペクタル性がある。他者の苦痛が見せ物になる。)
2つ、写真を見る「われわれ」と写真に写る世界には、無限の遠さがあり、故に「我々」は写真から全てを理解することは出来ない。(写真は記号性が高い、故に、多くの解釈が存在する。対極の意見さえ、一枚の写真から生まれる。故に、写真のキャプションには気を付けなければならない。)
3つ、一方で、写真や映像には倫理的な契機を作ることが可能であるということ。(写真には、必ず誰かの視点がある。撮影のみならず、それは編集行為も含まれる。)これらが、本書での主な主張であると思う。
以上の写真の本質が実際の写真を見ていきながら語られている。これらの写真の考察は、他者の苦痛への人間が持つ眼差しへの欲望を、発見させる。「我々」は、グロテスクなものを欲する欲求がある。しかし、それらの写真に鑑賞者の「我々」は含まれない。私たちは、安全な場所から写真により、同情したフリをし、他者の苦痛を楽しんでしまう性を持っている。写真はそれらの性を無意識に刺激する。そこに写真のスペクタル性があると私は考える。またこれらの考察は写真論だけでなく、戦争やマスメディアを考察する際の倫理観にも繋がるだろう。
本書は翻訳も大変優れており、読み易い。気になる人は手に取って読んでもらいたい。
スーザン・ソンタグ
『他者の苦痛へのまなざし』
北條文緒訳
みすず書房 2003
カバー装画:ゴヤ「不幸な母親!」(部分)
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